
原状回復費は「もらったら工事しなくてもOK」?
賃貸経営をされている大家さんなら、こう思ったことはありませんか。
「退去者から原状回復費をもらったけれど、実際に工事をしなかったら、お金を返さないといけないの?」
結論から言うと、契約書・合意書の書き方次第では「工事をしなくても、もらった費用をそのまま受け取ってよい」というのが裁判所の判断として存在します。ただし、ここには重要な注意点もたくさんあります。
本記事では、大家さんの実務目線で判例と対応策を整理しました。
※本記事は一般的な解説であり、法的助言ではありません。
実際の個別事案は必ず弁護士などの専門家にご確認ください。
1. 実際にあった具体例:エアコン洗浄費1万円のケース
退去時のやり取りで、こんな事例がありました。
- 契約書の条文に「退去時にエアコン清掃費用として1万円を支払う」と記載
- ところがそのエアコンは15年ほど前の古い機種
- 洗浄して再貸出しするより、交換したほうが合理的と大家側が判断
- すると「洗浄費をもらっておいて交換するのはぼったくりでは?」という指摘を受けた
「お金をもらっておいて工事をやらない」というのは、確かにグレーな印象がありますよね。
このようなケースは実際に裁判にもなっています。
2. 裁判所の考え方:契約は「工事委任」ではなく「金銭精算」と解する判断
大家側に立った裁判例の考え方
裁判例では、退去合意書の内容が次のように解釈されたものがあります。
賃借人の「原状回復義務の履行に代えて、賃貸人に対し金員を支払うことを合意する趣旨」であり、「原状回復工事を実施することを約した趣旨ではない」
そのうえで、賃貸人が明確に工事の実施を約していない限り、賃貸人に工事を実施する義務はなく、費用の支払いは工事実施の有無にかかわらず合意されたものだと判断されています 不動産適正取引推進機構。
つまり、
- 「この工事を必ずやってください」という契約(工事委任契約)ではなく、
- 「この金額を支払ってください」という契約(金銭精算の合意)
だと解釈されれば、やらなくてもOK、返す必要もないという結論になります。
ただし、逆の結論の裁判例もある
ここが重要です。工事の実施が前提になっていたと認められた事案では、借主勝訴の判断も出ています。
例えば東京地裁・令和4年3月15日判決では、店舗の賃貸借契約終了時に「敷金から原状回復工事費用を控除する」合意がされたのに実際には工事が行われなかった事案で、裁判所は次のように判断しました。
- 契約や交渉経過から、借主は「実際に原状回復工事が実施されるからこそ費用を負担する」という動機で合意した
- 工事が実施されないと分かっていたら合意しなかった
- → 借主の「動機の錯誤」により合意の一部は無効、不当利得として費用の返還を命じた RETIO判例データベース 同種事例の解説
つまり結論は、「請求書や合意書の文言が工事を前提にした書き方かどうか」で結果が分かれる、ということです。
上記のとおり、大家に有利な判断も、借主に有利な判断も、いずれも実在することをご承知おきください。
3. 契約書の条文がすべて:記載の重要性がカギ
判例上繰り返し強調されるのが、契約書・特約の条文にしっかり記載があることです。
- 「退去時ルームクリーニング代として 3万円 を支払うものとする」
- 「エアコン洗浄費用として 1万円 を支払うものとする」
このように金額を明示した「支払い条項」があれば、それは「お金を払ってください」という合意であり、工事委任ではない、という構成が成り立ちます。大家さんは、契約書の条文に載っている範囲の費用であれば堂々と請求して問題ありません。
金額・範囲の記載がないとリスク大
逆に、金額や対象範囲が曖昧な特約は無効になりやすい点に注意が必要です。
- 前橋地裁・2019年2月4日判決:汚損状態や清掃範囲の記載がないクリーニング特約は、借主の合意がなかったとして無効
- 東京地裁・2019年11月15日判決:詳細な説明を受けておらず、清掃範囲や通常損耗に関する記載がない特約は無効 弁護士法人ベンチャーサポート法律事務所
「クリーニング代は借主負担」だけでは足りません。
金額・範囲・内容を具体的に条文へ落とし込むことが重要です。
4. 大家さんが自分で掃除する「DIYケース」もOK?
条文に「退去時のルームクリーニング代3万円を支払うものとする」とあれば、業者に発注せず、大家さん自身が掃除してその費用を自分の収入にすることも理屈の上では可能です。
実際に、ご自身で清掃やリフォームが好きな大家さんで、いただいた費用を原資に自分で対応している方もいます。もちろん「実際にやったかどうか」が問題になるのではなく、契約上、工事実施の約束がない限り費用の受領自体は有効、というのが裁判例の考え方です。
5. 壁紙の毀損などの「過失項目」も同じ考え方?
「壁紙を汚してしまった。退去時に張替え費用を請求され、払った。でも、その後張替えしていなくてもいいの?」という質問もあります。
結論としては、壁紙の汚損のような「借主の故意・過失による毀損」は、通常損耗ではなく、契約書の「故意・過失による毀損は借主負担」条項に該当します。多くの契約書にこの種の条文はあるため、支払い請求自体は有効です。「〇〇工事で直します」という約束まで条文にないので、お金をもらってそのままにする(汚れた壁紙のまま募集する)こと自体は違法ではありません。
【重要】住居用賃貸では「通常損耗」の特約に注意
ただし、ここから先は住居用(一般の部屋)と事業用(店舗)で扱いが異なる点に注意してください。
- 国交省「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン」では、通常損耗・経年変化は原則として借主負担とできないとされ、特約で負担させる場合も「賃借人が内容を理解し、契約内容とすることを明確に合意していること」が必要とされています 国土交通省
- 通常損耗を借主負担とする特約について、大阪高裁・平成16年12月17日判決は、借主への情報提供・説明が不十分なままの合意は消費者契約法10条に違反し無効だと判断しました 大江・田中・大宅法律事務所
つまり、「もらえるものはもらう」とはいえ、通常損耗分を借主に負担させる特約は、説明・明確な合意がない限り後で無効とされるリスクがあります。「支払い条項」にしても、金額・範囲を具体的にし、契約時に説明する姿勢が守りになります。
6. 実は「もらう前」が一番大事:回収実務のポイント
動画内でも、管理会社の方が「もらう前が一番大変。そこが管理会社の腕の見せどころ」と話しています。請求・回収の実務ポイントを整理します。
① 退去立会い時の「合意書」がすべて
退去立ち合いの場で、費用の内訳・金額・支払期日を明記した合意書(「立会い時精算書」「退去時合意書」)を取り交わすことが最も安心です。
- 立ち合い時にその場で金額が分かる項目(壁紙は平米単価、クッションフロアも平米単価など)は経験上即答できる
- 壁の穴など大工の見積もりが必要な項目はその場では出せないため、後日精算の扱いになる
② 保証会社の補填は「合意書ありき」
家賃保証会社は、原状回復費用を補填してくれる商品がありますが、合意書が取り交わせていないと保証してくれません。
- 合意書があれば保証会社に申請してお金を受け取れる
- ただし保証額には上限がある(例:家賃6万円の物件なら保証は12万円程度まで)
- 30万円の請求なら、差額分は自力回収しかない
③ 敷金は「多めに預かる」が最強の武器
敷金は回収の担保であり、多めに預かっていれば「ここから差し引かせてもらいます」という強気の対応ができます。
近年は「敷金ゼロ物件」も増えていますが、その場合は原状回復費用を敷金から差し引けないため、退去時の回収トラブルが起きやすくなります マネーフォワード。
④ 悪質な退去者対策:転居先の確保
部屋をぐちゃぐちゃにして支払わず逃げるような退去者には、合意書があっても回収は困難です。退去者の新しい住所・連絡先をしっかり把握しておくことが、その後の自力回収の生命線になります。
7. 退去者と揉めたときの対応:事務的に、感情的にしない
近年はネットで情報を調べて「これはぼったくりだ」と主張する退去者も増えています。
- 実例:洗濯機の給排水用エルボ(部品)を退去者が持ち去ったので2,000円を請求 → 「原価は700円くらいだろう。消費者センターに言う」と言われた
- しかし大家側にも交通費・車両費・スタッフの人件費・運営費というコストがあり、原価だけで「バッタもん」扱いされる筋合いはない
飲食店に例えるなら、「材料費と同じ値段で料理を提供しろ」と言うようなもの。
ただ、こうした退去者に感情的に反論すると、ネットの口コミに悪評を書かれるリスクもあります。「純粋に、お支払いください」と事務的に対応するのが、結果的に最も安全です。
8. まとめ:大家さんが押さえるべき4つのポイント
- 契約書・合意書の条文が命:「〇〇費として〇〇円を支払うものとする」と金額を明記し、工事委任ではなく金銭精算の合意にしておく
- 工事を前提にした書き方・やり取りをしない:工事実施を約束する文言があると、「動機の錯誤」で返還を命じられる裁判例がある
- 住居用では通常損耗の特約に注意:消費者契約法10条・国交省ガイドラインの壁。金額・範囲を具体的にし、契約時にきちんと説明する
- 回収は「もらう前」が勝負:立会い時の合意書、保証会社の補填(上限あり)、敷金、転居先の把握を徹底する
「もらえるものはしっかりもらう」——そのためには、条文と証拠(合意書)を丁寧に整えておくことが、何よりの近道です。契約書の条文が古い・曖昧だと感じている大家さんは、この機会に一度、管理会社や専門家へ条文チェックを依頼してみてはいかがでしょうか。
免責:本記事は動画の解説内容と公開されている判例・法令・ガイドラインに基づく一般的な情報提供であり、個別の法的助言を構成するものではありません。具体的な請求・契約書の改訂にあたっては、弁護士や宅地建物取引士などの専門家にご相談ください。なお、動画内で言及された「令和元年の裁判例」の詳細(裁判所名・事件名)は確認できていません。